History of Fuchsias
フクシアの発見とその後の歴史


 Fuchsiaは、欧米では非常にポピュラーな花です。
 日本では「ホクシャ」とか「ツリウキソウ (釣浮草) 」の別名で呼ばれている場合がありますが、Fuchsiaはヨーロッパ(オランダ・ドイツ)では「フクシア」、英語圏では「フューシア」と発音します。イギリスでは耳飾りのような 花の姿から「イヤー・ドロップ」(ear drop) とか「淑女のイヤリング」(Lady's eardrops)の別名でも呼ばれて親しまれています。


フクシアの発見

 「フクシア」は、フランス人宣教師であり植物学者であったチャールズ・プルミエ( Father Charles Plumier 1646-1704 )によってヒスパニオラ島(現在のドミニカ共和国)で発見されました。発見された最初のフクシアは Fuchsia triphylla flore coccinea ( 一つの節に3つの葉をもつ赤い花という意味)で、1703年にNova Plantarum Americanum Generaというパルマーの著書の中に初めてスケッチが掲載されました。しかし、チャールズ・パルマーは、船が難破したため、フクシアの実物や種などをヨーロッパに持ち込むことは出来ませんでした。

 その後 F. triphyllaは、実際の自生地がヒスパニオラ島(現在のドミニカ共和国)のどこであるのかが解らないままに経過し、その存在すら疑われるようになりましたが、170年後の1873年にアメリカ人のトーマス・ホッグ( Thomas Hogg )によりサントドミンゴ近くで再発見され、アメリカに送られた種を蒔いて育てられたものがイギリスに渡り、英国のキューガーデンにおくられF. triphyllaであると確認されたのは1882年になってからでした。


フクシアの名前の由来
 チャールズ・プルミエは、この植物(Fuchsia triphylla flore coccinea)を発見当時より100年以上前に亡くなった、ドイツのチュービンゲン大学医学部教授を務めた医者であり、植物の学問的命名を試みた植物学者でもあったレオナルド・フックス(Leonhart Fuchs 1501 - 1566)にちなんでFuchsiaと命名しました。したがって、レオナルド・フックス自身は一度も「フクシア」を見たことがないというわけです。
 フックスの時代は、医学と植物学が密接な関係を持っておりました。それは様々な病気の治療薬となる新種の植物を探して新大陸やアジアなど世界中ををプランツハンターが駆け回った時代でもありました。

 また、フクシアの名付け親となったチャールズ・プルミエはベゴニア、マグノリア、ロベリアの名付け親でもあります。


フクシアのヨーロッパへの導入

 1768年から1840年までの期間に、次々とフクシアの原種( species )が発見されました、それらの原種は1836年から1843年まで英国へと導入されました、ドイツの植物学者K. T. HartwegはBrithish Roal Horticutural Associationに委任され、中央アメリカでフクシアを収集しました。

 最初にヨーロッパに導入されたのは F. magellanicaF. coccineaでした。少し遅れて、F.arborescens, F. macrophylla, F.fulgensが導入されました。


フクシアの交配 (hybridization)

 さて、最初に発見された原種のフクシア( species )は、今日でも F.triphylla という原種の名前が付けられて栽培されています。その後、他の数多くのフクシアの原種が発見され、ヨーロッパに持ち帰られたことにより、交配種育成が盛んとなりました。ヨーロッパで初めてフクシアが栽培されたのは1790年代です。
 とはいえ、交配が実際に開始されたのは1825年からでした。F.arborescensF.coccineaF.macrostemmaを用いて交配が行われました。F. magellanicaF. fulgensを用いて行われましたが、はっきりした記録は残っていないようです。

 その後、多くの交配が行われました。私たちが、今日栽培している数千種類に及ぶ園芸品種は、原種の人為的な交配や偶然の交雑によって生み出されてきたものです。


ビクトリア朝時代のフクシア

 フクシアがヨーロッパに紹介されて後、ヴィクトリア朝時代(1837-1901)にはフクシアにかなりの人気が集まり、広く栽培されていました。
 多くの庭師たちが、ピラミッド仕立て、スタンダード仕立て、ピラー仕立てなどのフクシアを育てていたようです。その中の一人James Lyeは、高さが2.4-3m、基部の幅が1.5mほどもあるフクシアを育て、West Englandのフクシア栽培チャンピオンと呼ばれていたとのことす。


フクシア人気の終焉

 第一次世界大戦の開戦とともに、多くの温室が食物を栽培するために転用される事態となり、他の園芸植物と同様にフクシアの人気は徐々に下火となっていきました。


アメリカに渡ったフクシア

 第一次世界大戦の後、the American Fuchsia Society(アメリカフクシア協会)が1929年に設立され、フクシアの栽培と交配がアメリカで特に盛んになりました。アメリカフクシア協会の会員がヨーロッパから持ち帰った品種をもとに、フクシアの品種改良が主にアメリカ合衆国の中で行われました。これらの品種を交配することにより、それまでのフクシアに比べて、より大きく、よりよい花の園芸品種が生み出されました。
 the American Fuchsia Societyに遅れること約10年、英国で the British Fuchsia Society (英国フクシア協会)が1938年に設立されました。
 アメリカで開発された多くの園芸品種は1950年代に入り再びヨーロッパへと導入され、今日見るような何千種類もの品種を生み出すためのもととなりました。


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